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石井光太 ×後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)

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石井「そうです。僕は、この仕事以外の選択肢は考えたことがないんですよ。後藤さんにはありました? 就職するという選択肢とか」

後藤「僕は、一度就職しました。ただそれは、音楽を続けるためには就職以外にないと思ったんです。首都圏に住んで、バイト代を計算をしてみたんです。そしたら、働き詰めで20万いくかいかないかくらいで。これじゃ、音楽作る時間が全くないぞと思って。だったら1回雇われようと思って。こっちの方が給料もいいし、有給も取れるし。残業も短めにして帰れば夜も使えると思ったんです。ひとつの手段でしかなかったんですけど。たまたま、とても良い会社だったんですよ。でも、音楽がダメだったら、会社は途中で辞めて田舎に帰ろうと思ってました。今日は、若い子達に就職ガイドではないですけど、光太さんがどのようにしてジャーナリストとして著書を出していけるようになったのかも、教えていただければなと思って」



石井「なるほど。僕はいろんな意味で運がよかったと思っています。物心がついたときから、作る人間になるんだと思っていました。ただし、親父が演劇系の仕事をしていたので、演劇系は絶対嫌だと思っていて、僕は音痴なので音楽という選択肢は元から無かったので、その後に、映画を作るのか小説を書くのか、ノンフィクションを書くのかっていう選択肢が残りました。それで、18歳のときに初めてアフガニスタンへ行って、地平線にずらっと並んでいる物乞いを見た時、これをレポすれば100%上手くいくという、根拠のない自信が芽生えたんです。その後ですぐに、そのレポを書くためには何が必要なのかを逆算しました。資金も必要だし、文章力も必要だし、海外取材をするには言語も必要。政治的な問題、背景も知らなきゃいけない、色々なものが必要とされてきます。そのために何をやるのかを考え、1日3冊の本を読む、1週間で小説を模写して、1カ月間で100枚の話を書くっていう毎日を自分に課す、そうやってずっと書くための筋力を作っていきました。付き合っていた彼女にもらうプレゼントは、全部図書券(笑)。普通、ノンフィクションを書く人達って、新聞社やテレビ局に入って10年20年修行して、そこから40歳や50歳になって独立するっていうケースが多いんです。でも僕は、それは嫌だった。すぐにやりたかった。大学を卒業した後、知り合いの会社を自分で受け継いで1年くらい続けて、その後会社ごと友達に譲ったんですが、辞めた後も僕にロイヤリティが発生するようなシステムにしたんです。その資金で一番初めの取材に行きました。それで、これをルポすれば上手くいくって決め込んでいたことをルポしたら上手くいったんですよ。どうすれば上手く書けるかってよく聞かれるんですが、正直な話わからないし、そんな方程式なんてないんですよね。後藤さんも、音楽をどうやったら絶対上手くいくかなんて聞かれても、答えはないですよね?」

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