後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)─2014.7. 7─
三輪二郎の『III』が素晴らしい。もうメチャンコ良い。
それは十代以降の僕の青春の風景 “横浜” の匂いが漂ってくるということも大きいのだけれども、何より、作品全体から人間らしさとしか喩えようのないフィーリングが立ちのぼっていて、聴いているととても安心するのだ。音楽は僕(あるいは、僕ら)のものだ!と思う。
人間が逃れられない身体(からだ)という容れ物。音楽というのは本来、技術も感覚も何もかも人間の身体から発してきたものだと思う。自然音とは違う。そういうヒューマニティから逃れようとした時代もあったのかもしれないけれど、どうやっても、音楽は人間の人間であるところに回収される。どんなにコンピューターが発達しても、その音楽の良さにチューニングを合わせるのは、人間でしかないのだ。
とかなんとか、仰々しい言葉たちも、そんなこと言わんでもいいかなぁと、部屋の隅っこにでも蹴り飛ばしておきたくなるのだけれども、このアルバムを聴くと。
ゆらゆらと。
もしくは散歩にでも出かけようか。そんな気分になる。
ダブルファンタジー。どこか投げっぱなし感もある三輪さんの歌に対して、大森靖子の “憑依” みたいな雰囲気の大袈裟な唄い方も良いなぁ。ふたりのコントラストが “ダブルファンタジー” という言葉やイメージを増幅させている。
それから、『レモンサワー』にも収録されていた「ソルティ・ドッグ・ブルース」の再録も本当に素晴らしい。
音圧を競い合うような流れの中で、ポップミュージックが耳の奥の鼓膜にへばりつくようになって久しい。でも、音楽には、音には強弱があるんだ。ドの音が機械的にドと判別される音で鳴ることだけが、音楽の美しさではなくて、ヨレたり、濁ったり、力強かったり、弱々しかったり、そこに感情が宿ったり、はぐらかされたり、そうしてどうにか僕らは楽曲にチューニングを合わせて、偶然なのかシンクロニシティなのか、そこで共有される何かにこそ本当の美しさがある、と僕は思う。
そういう僕にとっては当たり前のことが、当たり前に鳴っている素晴らしいアルバム。
1